2006年12月

失われた文章をもとめて。。。涙

 一瞬で消えてしまう儚さって。。。

 今日は、相当長いブログを書きました。

 でも、コンピューターの問題か、サイトの問題か、

 文章が一瞬で失われました。

 誰の目にも触れないほうがよかったということなのかしら。

 失ったものは大きいと考えるのが人です。

 考えることは、感じることに満たないのです。

 この喪失感は、時間をかけて考えた文章であるからこそ、

 恐ろしい存在感で、肩の上に乗りかかります。

 人は、いろんな身体部位で、気持ちを感じるものです。

 日本語の豊かさにはまり、そういえば、私は卒論で慣用表現を扱ったのでした。

 ということも、つらつら書いたのに!

 私は自他ともに認める、ちゃらんぽらんな人間ですが、文章を書くことに対しては、真面目で、誠実なつもりです。

 文章は嘘もつけるけど、真実を物語るために、欠かせないものです。

 私の思いを踏みにじったコンピューターに怒りを覚えます。笑

 いえ、これは嘘です。いつだって、怒ってやしないのです。

 ただ、虚しさを感じたくないのです。

 虚無は人間を駄目にする。

 怒ることは、人間らしい行為ですよね。
 
 消えてしまった文章は、名文のような気がしてやまない!これも人間の性。

 サヨナラだけが人生ですね。井伏さん。寺山さん。

 世界の果てにいってきます。

 ちーん。
 

ざわめく私のモンスター

金曜の夜は、糸井先生と、モノクロームサーカスの公演を京都芸術センターに観にいった。

 身体が吠いている。。。

 「怪物」という佐伯さんのダンスを観て感じたこと。荒れ狂うモンスターが皮膚の下から飛び出してきそうだった。

 みんなモンスターを身体の奥に飼っている。

 うなる、吠える、狂う身体。ん~、気持ちよさそう。

 他の2作品もすごく見ごたえがあって、素晴らしかった。私もこんなふうに踊れるようになりたい。誰か、一緒に踊ろう。モンスターを呼びにいこう。私のモンスターを引き出してほしい。

 一人じゃできなくても、相手がいればできること。

 コンタクト・インプロヴィゼーションが教えてくれることは限りなく広く、深い。

 身体の対話を。


 土曜日は関西大学に教志netさん企画の糸井先生の講演会へ。

 今度は人との対話。

 色んなものがリンクする感じで、講演会もそこで出会った人との会話も身体に染み入るようだった。

 人と人を紡いでいく授業をされる糸井先生は本当に素敵だなあ。教師が教えるのじゃなくてさ、子ども同士が引き出しあい、学びあう授業作りを一貫して実践されている。

 授業を聞きながら、ぼんやり中島みゆきの「糸」の歌を思い出した。ああ、なるほど、「糸井先生じゃん」とか思いながら。。ちょっとこれは美しい駄洒落じゃない!?

 ね。。。

 エリカのブログを読んで、三浦綾子の言葉に再会する。懐かしくて、何かこみ上げてくるものがあった。

 「道ありき」を引っ張り出してきて読み直す。

 忘れもしない。

 アメリカ、New Yorkの地下鉄で読み出して、ワシントンD.C.からの帰りのバスで読みきった。いっぱいいっぱい、隣に人がいるのに泣きじゃくりながら読んだこと。いっぱいの「真実」に出会い、身体ごと泣いた。

 すさまじい「生」の記録。

 私は、彼女の本を読んで、誰かをどうしようもなく「愛したい」という願望にかられた。無性に、無償の愛を。

 “ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。”

                                   三浦綾子「道ありき」



 「本当の愛」ってこういうことなのか…身体が震えるくらいだった。

 教育の目的も同じところにあるのだろうな。

 子ども達が、この世界で、「生」を生き抜くことができるように。

 なぜなら、生きることは「義務」だから。

 子どもを愛し、愛されているという自信を与える。それが、その人が一人でいるときにも、自信を与えることになる。

 愛された記憶って、ほんっとに大切なんだろう。大切にされたことのない人間は、人を大切にできないっていうもん。。。

 だから私は、隙があれば子どもをハグする。

 男の子だって、いやがっても、顔は笑ってるからいいにしよ。

 今だけじゃん、ぎゅってできるの。

 ぎゅってするのは、愛しているよっていう何よりの証拠だもん。

 10歳までは、甘えさせていいっていうしね。

 あたたかさの記憶がその子の一生を支えられるなら。。。

 世のお父さん、お母さん、

 子どもをたくさん、抱きしめてあげてね。

 Love you forever.ってつぶやきながら。

 それだけでも、いいんだよ。きっと。

 だって、それが一番、難しいことかもしれない。本当に人を愛するって。

 「世紀末の詩」の教授も言ってたもんね。誰もがたどり着けるものじゃないんだって。

 ん~~~~~~

 ざわめきを胸にしまい眠ろう。

 

Sharing の価値

 “Share”

英単語の中でもお気に入り、とっておきの言葉。

 日本語にすると、ちょっとかたくて、「共有する」とかになっちゃうから、私は、カタカナ英語で「シェアする」という言い方がすき。あ、「分かち合う」という日本語もいいねえ。

 “シェアすること”は、教育現場、教室においても、人間関係においても、すっごくすっごく意義深いことだと思う。

 人が認められるために、わかりあうために、お互いを大事にするために、お互いの素敵さに気付くために。。。。いっぱいいっぱい価値がある行為。シェアすることってのはさ。

 今日、大先輩の石黒先生と作文指導について話しながら、気付いたこと、確信したことがあった。

 子どもは、他の子どものよさに気付いたときに、成長する。

 どれだけ、「こうしたらいい作文が書けます」って教えるよりも、

 友達の作文の素晴らしい表現や内容に心を動かされれば、そこから何かが生まれるのだ。

 まずは、「いいな」「素敵だな」って心が感じることが大切なのだと思う。

 

 この前、石黒先生に、うちのクラスの子どもたちの描いた絵をほめてもらった。

 物語を聞いて、絵にする題材。「屋根の上の白い猫」というお話。

 一応、シナリオに従って進めようとはしたのものの、全く上手くいかない。子どもも、こちらの言うとおりには描きたがらない、

 一時はどうなるかと思ったし、子どもたちも、どうなるかと思っていたと思う。笑
 
 でも、私が、「素敵だな」と思う子どもの絵をみんなに紹介する、そうしたシェアリングを繰り返すうちに、いつのまにか、素敵な作品たちが出来上がった。

 私は「こう描きなさい」とは言ってないけど、友達の作品を「いいな」と感じることで、子ども達は、自分の作品にそれを生かしたり、自分なりにアレンジしながら、オリジナルの作品を仕上げていったと思う。

 子どもの持つ感性を信じてやっていけばいいのだな。

 うちの学校には、素晴らしい児童詩を子ども達に書かせておられる先生がいらっしゃるが、その先生も言っておられた。

 「特別なことは何もしていない。ただ、こちらが、いいなあと思った作品を、みんなの前で読んでやるんですよ。」

 この先生も、教室をあったかあい空気で包み込む、素晴らしい先生だ。やってらっしゃることは、シェアすること。これにつきるのかもしれない。作文指導って、そういうことなのかもしれない。 
 


 子ども達は自分から学ぶ力を持っている。

 その仲立ち、子どもどうしをつないだり、友達のよさをシェアしたり、気付きの場を提供する、それが教師の役目であり、教室の役割なのだと、改めて感じた。

 教師は、できるだけ、たくさんの眼を持たないといけないな。これは必須だ。

 子ども達の“素敵”をひとつでも多く見つけるセンス。ほめるセンス。×ではなく、〇を付けるセンス。

 感性、センス。

 それが全てではないかもしれないけど、全てのような気もする。

 しなやかな感性を常に磨いていかなければ!そのために!?

 ああ!今日も素敵な一日だった~!

 

くらやみこそ、未知の輝きにあふれている。

8日金曜日。今日は持久走大会だった。雨で延期かと思われたけれど、なんとか天気が持ちこたえて、無事に開催された。

 持久走大会、というひとつの取り組みをとっても、うちのクラスには色々ドラマがあった。そんなおおげさなものじゃないが、まあ、こんなふうにかっこよく言ってみるかな。

 走りたい子がいれば、走りたくない子もいるわけで。

 マラソンは自分との戦い。

 私はこんなふうに思っているから、人と比べずに、自分の戦いたい目標を決めて走ろう、と語りかけていた。

 マラソンを人生にたとえた詩も多いけれど、本当にその通りだと思うのだ。

 「歩いてはだめ」って言うけれど、歩かずにはいられない人もいて、「歩く」ことさえできない人もいるんだから、「歩く」ことだって立派なことだと、認めていかないといけないのだと、

 走りの苦手な子と肩を並べる中で感じた。

 人と同じペースで行くのは走りやすいが…そうできないときだってあるんだなあ。自分のペースが一番だいじ。お互いのそれを認めていけるやさしい社会がだいじなんだ。。。

 うちのクラスには、とびきりマラソンが苦手な子が男一人、女一人いて、それはそれはしんどかったと思う。二人とも、当日、休みたくて仕方なかったらしい。

「なんでマラソンなんてしなあかねん!」「したって意味ないやんけ!」

 それでも、見事、3.4kmを完走した。すばらしいじゃないですか!
 
 いやなことだって、ある。逃げたいことだって、生きてる中では、いっぱいある。でも、そういうことにだって、自分のペースでいいから、チャレンジしてほしいよ。苦手なことっていうのは、実は色んなことを教えてくれる先生だから。誰かに教えてもらわなくても、自分で多くを学ぶことができるはずだよ。

 子ども達一人ひとりに、色んなドラマがあった持久走大会で、だからこそ、教室に帰ってきた子ども達の顔は晴れやかだった。悔しい思いをした子もいたが、それはそれで、いいのだと思う。男女で最下位だった2人も、いい表情だった。

 「先生、走ってよかったわ。」

 そりゃあ、よかった。

 
 もうひとつの発見は、バナナ効果。

 前日の学級通信で、バナナを食べると横腹が痛くならないという裏ワザを紹介していたら、たくさんの子がバナナを食べてきていた。
 また、前日に聞いたときは、クラスの中に、朝ごはんを食べてこない子が3分の1くらいいたのに、その日は、1人をのぞく全員が食べてきていた。いいこと、いいこと。お家の人も応援してくれてると思うと、心強いもんね。保護者もたくさん見えていて、温かく応援してくださって、ありがたかった。

 

 学校現場に入って、覚えた言い回しに、「指導が入る」「指導が落ちる」というものがある。

 入らなかった。落ちなかった。1学期の最初。しんどかった。指導が、すべて、反抗むき出しで返って来る。正義が通らない。指導しきれない。

 しかし、最近、学級に正義が通るようになってきたのだ。

 つい先日は、一番弱い子が暴言を言われたために、クラスのみんなが怒った。いじめた本人を、冷静に責めた。これは、画期的な出来事だと思う。

 今まで、暴言が横行していたのに、少しづつの意識が子ども達の間に芽生えてきた。おかしいことに「気付く」視点が養われてきた。これは、進歩だ。

 「幸せを手に入れるんじゃない。幸せを感じることのできる心を手にいれるんだ。」
 
 これは、甲本ヒロトの言葉だが、これと似ている。つまり、「気付く」「感じる」というプロセスこそが、価値のあるものだということ。

 私はほめた。君達は、すばらしい。こんなことができるじゃないか!

 指導のタイミングは、いつも不意打ちでやってくる。

 全ては子ども達の日常から浮かび上がってくる。

 それを、どう料理するかが学級を左右する。

 私自身、こんな学級にしたい、というイメージや信念があっても、それを押し付けていったところで、なかなか子ども達には入りにくい。

 しかし、子ども達の中から浮かび上がってきた現実の問題を、皆で共有し、解決していくことで、何か、見えてくる姿がある。

 そんなことを感じる日々だ。

 指導が入るようになってきた。落ちるようになってきた。

 それは、子どもが、素直な心で、言葉を受け入れてくれるようになったということなのだろうか。

 コップの口が、上を向いている。

 あらゆる出来事の中から、大切なこと、共有したいことを抽出し、雫のようにぽたりぽたりと心のコップに染み渡らせることができたなら。

 この先、どういう風に進んでいくのか、イメージがない私。見通しがない私。見通しが持てない私。圧倒的な経験不足のために。

 しかし、それを逆手にとって、見えているものに向き合って、そこから、未来を切り開きたい。教師が目指す子ども像以上の、予想外の素晴らしさを、彼らは存分に持っているから。それを、日々彼らは私に証明してくれる。

 私は「闇」が好きだ。

 見えないことは、不安だが、その分可能性に満ちているから。

 若いときってそうじゃないといけないんだろう。明るくて、先が見えていては、計算されたものしか生まれない。向こう見ずで、失敗も多いけど、冒険者スピリッツを持って、未知の領域へと歩んで生きたい。

 大切なことは目に見えない。星の王子さまも、暗闇愛好家よね。

 目に見える結果ばかりを追いがちな自分。

 昨日指導したら、明日には変わっていてほしいと思う自分。

 暗闇の可能性を思い出せ。

 目には見えなくても、成長している。土の中に根を伸ばすように。そう思いたい。そして、水をやること、肥料を与えること、信じてまつことを怠らない。

 かつて、自分だってそうだった。一日、いちにち、ちっとも英語がうまくならないことに焦ってばかりいた留学生活。

 一日で結果なんて表れるわけがない。目には見えない部分で、ねっこをはりめぐらしている時期だってあるわけだ。そうやって自分をはげましていたんだ。

 自分をはげまし、子どもをはげまし。

 もっと気楽に、もっと緻密にいこうよ。



 今日は、学校で大泣きしてしまった。

 大好きな特別支援コーディネーターの先生と話しているときのこと。

 うちのクラスからは、5人がその先生にお世話になっているのだけど、自分の指導のいたらなさ、悔しさ、自己嫌悪、子どもへの苛立ち、理不尽なことへの怒り・・・なんだかいろんなものがこみ上げてきて、次から次からあふれでる涙をこらえられなかった。

 別に、先生から責められたわけでも、叱られたわけでもないのに、話をする中で、溜まっていたものが、堰を切ったようにあふれてきたようだった。

 これで学校で泣くのは2度目だな。1度目も、同じような内容だった。

 私を支え、突き動かす「怒り」という感情。時々、どうしようもなくなって、爆発する。

 私は、理不尽なものが嫌いだ。人の気持ちや立場を考えないものが嫌いだ。

 だから、それらには、徹底して怒りたくなる。

 いつか、この熱が冷めることもあるのだろうか。きっとないだろうな。

 私は、自分のこの部分を失いたくないのだ。感情起伏の少ない私が、「怒り」を失えば、あとは、やすらいで静かに暮らすだけの人生になってしまう気がする。

 でも、最近、怒りすぎかな。自分っていう人間の信念が、見え隠れする今日このごろ。

 表現するって、新たな自分を知るために、本当に価値ある手段です。

 

 ふ~。だらだらとてもいい。書き留めたかった今日という一日。

 たのしい!といえるようになってきた学校での毎日。かわいくてしかたないこどもたち。みえかくれするじぶんという人間。

 こうやって、文章にすることで、ふりかえり。

 もっともっとかきとめたいことがあったけど、これくらいにしよう。

 濃い一日だったなあ。
 

 
 

疑問符を掲げつつ生きること。~学校編~

 昨日から、電車の中で、糸井先生からお借りした、『ダッセン』を読み始めていた。

 ひきこまれて、一気に読破。

 なんだか、自分が持っている感覚と通じるものがいくつかあって、“うんうん、そうですね!!!”と、うなずきながら読んだ。熱い想いがこみ上げてきた。今村先生の本を読んだときの感覚と似ていた。

 『ダッセン』とは、「脱・先生」 自分で学校を立ち上げるべく、5年間で高校の教員を辞めて、現在「NPO法人 侍学園」を設立して活動されている方の本だ。

 学校や教師という職への愛や、可能性を抱きながら、同時に、学校や教師への不信や批判精神を持っていた人。

 私もそうじゃないといけない気がしている。常に、何かしらの疑問符と抱いているべきだと。自分に対しても、自分の属する対象に対しても。

 常識を疑え。自分を疑え。

 いつからか、そう思っているから。また、ありがたいことに、そう教えられた。。。

 大学4年のとき、教員採用試験グループ面接対策のディスカッションがあった。

 その中で、私は何度も学校批判をした。教師批判をした。それでも、学校の可能性を信じている。それでも、教師という職業は素晴らしいと思っている。そう伝えながら。

 「なんでそこまで言って、学校で働きたいの?」

 参加者の一人にそう聞かれたこどがあった。

 私はこう答えた。

 「学校という現場に一度入り、本当に学校を知った上で、自分で学校を作るか、学校に残るかを決めたいから。」

 ずっと学校で働くつもりはなかった。海外にも出たかったし、大学院で学ぶのもいいなあと思った。

 しかし、なんとしても、学校現場に入り込みたかった。そこで、学校は、これだけ批判されるほど、駄目で無力なところなのか、自分の目で確かめたいと思った。同時に、日本の教育の現状について、海外で語れるようになりたかった。

 実際、自分が学校で半年ちょっと働いてみて、わかったことがたくさんある。

 確かに、学校は自分が批判していたような体質を持っているものだと思う部分がたくさんあった。

 しかし、それは、学校が学校であるために、教師が教師であるために、必要な要素だった。

 私が批判していた部分、たとえば「不自由」や「尊重されない子どもの意見」を改善しようとすれば、学校や学級は、崩壊への道を辿らざるをえない。

 クラスでは、楽しくなくても、やりたくなくても、みんなと同じ活動をしなければならない。教師は、そうさせなければならない。
 もし、教師が、その子の思いを尊重するなどと言って、“●●はしなくてもいいよ。”というとする。すると、“なんで●●だけ?ずるい。ぼくもしたくない。”と言って、教師にわがままを認めさせようとする。
 そうなると、教師の指示は、従わなくてもいいものになる。好き勝手をするようになる。授業は成り立たない。全員が“やりたい”というものでないと、成り立たなくなる。しかし、世界には、全員が“やりたい”と思えるようなものは、そうそうない。勉強といえば、なおさら。

 教師は、友達のようであっては子どもとの関係が崩れていってしまう。

 思っていた以上に、自由や臨機応変の利かない職場、職なのだ。

 「崩壊」してしまっては、子どもたちの可能性をのばしたり、力を着けることなどできるはずもない。「崩壊」しないために、言いたくないことも言わないといけないし、やりたくないこともやらなければならない。

 それが現場だった。

 「これくらならいいか」と藤原由香里は思っていても、「これは、絶対にいけません」と藤原先生は言わないといけない。

 そうじゃないと、信頼関係は、すぐに崩れる。

 窮屈ではあっても、私は、「先生」を演じないといけない。しかし、それが、「学校」という場所で、子どもたちを輝かせる方法なのだ。

 だから、学校で居場所をなくす子どもたちがいても仕方ないと思う。

 先生だって、学校でしか子どもを輝かすことのできないやり方で、子どもと接しているんだもの。

 学校で輝けなくても、違う場所、社会の中や、フリースクールで輝ける子どもはいる。

 だから、私は、別に学校に行くことが一番だとは思ってない。

 でも、私が学校で働く以上、できるだけ多くの子ども達にとって楽しく、自分の存在を認められる場所にしたいし、可能性を伸ばしたいと思う。

 


 また、もう一つ、私が現場に出てわかったこと。

 それは、学校には無限の可能性があるということ。

 人ひとりの可能性は∞。

 教師が無限大の可能性を持ち、それに同じく無限大の可能性を持った子どもが加わって、できないことはないと思うのだ。

 糸井先生をはじめ、胸躍る実践をされている先生方がたくさんいる!いきいきとしている子ども達がたくさんいる!!

 その姿を目にし、ああ、学校ってやっぱりいいな!そう思えたことも確かだ。それが、私の今の原動力になっている。学校への批判というネガティブな精神ではなく、すばらしいものを観た感動というポジティブな想いから生まれたベクトル。
 
 教育を行う上で、学校は一種の「器」でしかない。この「器」では私のやりたい教育ができないな、と心から感じたとき、私は新たな「器」を作るため、学校を辞めるかもしれない。

 でも、「学校」の無限の可能性を感じて、今は何かしら、やっていくつもりだ。

 そう、「学校」とは人が出会う場所。そういう意味で、社会のあらゆるところに学校があるのだ。教育があるのだ。

 その学びと出会いの専門機関である「学校」にいられることは、非常にチャンスが多いってこと。わたしは感謝しないといけないなあ。

 最後に、心に残った一言を引用しよう。

“本物の教師とは職業として教師を選んでいるわけでなく教師として生きていくことを選んだ人たちだ。”                  長岡 秀貴 『ダッセン』より

 一冊の本からわきあがる心のムーブメント。

 やっぱり読書はいいな~!
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