8月1日。あれから9年が経つ。
消えようとしている。忘れかけているといってもいい。
消えてしまうの?せっかくつけてもらった傷なのに。
「飼い犬に手を噛まれる」っていうのは、すごく間抜けな話だと思ってた。
自分の傷の話も、そういう間抜けの類の話なんだろう。でも、100%笑えない。その傷には、「私」が表れていると思う。
暑い、厚い夏の朝。
お母さんが、私を呼び起こす。
「快が逃げただあな。はよ起きてつかまえて。」
こんな朝が、実家にいたころ、何度となくあった。うちの犬、「快」ときたら、とにかく脱走の常習犯。そして、もっと悪いことに、一度鎖から離れると、飼い主に向かって、歯をむき出しにし、血相を変えて吠える、うなる、噛み付く、という習性があったのだ。
うげ~~。。。でも、なんとかしな。雄犬なので、雌犬に手を出すと大変・・・。また、人に噛み付く危険性もある。車に引かれるかもしれない・・・とにかく一刻を争う一大事。
しかも、その日、運の悪いことに、彼は、首輪さえ、つけていなかった。首輪があれば、鎖とつなげば、一件落着。しかし、首輪もついてないとなると、まずはそれから首に巻かねばならない。それは、考えただけで、ぞっとするような大変な作業だ・・・。
情けない飼い主と思われようが、まあ、躾が悪かったのだろう。そういう風に育ってしまった。躾といっても、小学生にたいした躾が出来るものでもないが。
さて、家の周りを自転車をこぎこぎ探すと、あちこちで、白い犬が駆け回っている姿を目にすることができる。しかし、猛スピードである。彼にしたら、せっかく鎖から解き放たれ、自由になったのだから、走り回っていたいのである。それを防ごうとする飼い主は、敵に他ならない。
「かい~!」と呼んでも、「かいくっくのテーマソング」を歌っても、エサを見せても、まったく反応を示さない。
これは、やばい。焦る飼い主。
手には首輪と紐を握り締め、犬狩りを続ける。
犬を見失い、あちこちを歩いていると、何やら、よその犬が吠える声が聞こえる。
あ、あれは、友達の家の犬だ・・・雌犬・・・やばい!
行ってみると、よその犬の周りを、快が、うろうろろ歩きまわっている。
なんとかしなきゃ!私がなんとかしなきゃ!大変なことになってからでは、取り返しがつかない。
私しかいない!立ち向かうしかない!
私は首輪を握り締めた。
「快・・・、こっちおいで」
私が自分を捕まえようとしていることに気づき、快は、低く、ウーっとうなり声を上げる。前歯の歯茎が見え、目は、イッテいる目だ。
やばい・・・こわい・・・
でも、そんなこと言ってるばあいじゃない。
じりじりと攻め寄る。そして、私は・・・
気がつけば血だらけだった。
腕から、白い蛋白質のようなものが、見えていた。
首輪は、私の手に握られたまま。快は、相変わらずうなっている。
人の家の庭で、私は、飼い犬に向かって、血だらけの腕を見せながら、問いかけていた。
「あんたが、しただで。こんなことして・・・。なんで、こんなことするの・・・。こんなんになったやんか・・・。」
自分の愛する犬に、ひどい目に合わされたショックと悔しさで、わんわん泣いて、家までの道を血と涙をだらだら流しながら帰った。
家に帰ると、母親が驚いていた。
水で、手を洗い、血を流すときも、病院に行く車の中でも、待合室でも、看護婦さんの前でも、診察の間も、私は、大声で、泣き続けた。中学3年である。
「もう、泣かんでもええやろ」
誰もがそういった。でも、私は泣くことをやめられなかったし、やめなかった。
痛くて泣いてたんじゃない。
悔しかった。でも、それだけでもない。
私がやらなきゃって、覚悟を決めて、立ち向かった勇気、そのぎりぎりの緊張。
それが報われなかった・・・大好きな犬に、傷をつけられた。
自分で整理がつけられなかったんだと思う。気が済むまで泣いて、泣いて、事実を受け止めようとしてたんかなあ。
家に帰って、涙はとまったのに、今度は、もっと泣きたくなって、吉野弘さんの詩を読んでは泣き、「花さき山」の絵本を読んでは泣いた。体が泣くことを欲していたから。
あんなに泣いたのは、あれが最初で最後。
あのときの腕の傷と手の傷は、いまだに残っている。
なでてみても、もう痛くない。ああ、消えていくんだろうか、せっかくつけてもらった傷なのに。
快は、それからも、何度も逃走を繰り返した。ヤンチャ坊主で、暴れん坊で、でも弱虫で怖がりで・・・。でも私が泣いたときは、ぺろぺろと涙をなめてくれる、優しい私の恋人だった。
今年で、彼は15歳。今も、まだ実家の縁の下で、したたかに生きている。
私をあんなに泣かせておいて・・・もう、2度と、泣かせないで。
ね、快くん。
あのとき、私も若かった。
あれは、正しい判断とは言わないね。
でも、それでも、ああするかもしれない。
私にとっては、精一杯の勇気と覚悟で、
それは全く賢くないのだけれど、
そうするしかなかった。私の思考回路、行動回路。
未完成の記憶。
夏の記憶は、理屈じゃ説明しきれないよ。
この話を笑えてたなら、もっと私の人生も違ってただろうね。
ね、快君?