組体操「Journey」の練習も、あと4日間を残すのみとなった。29日は本番。ラストスパートだ。
応援の練習、リレーの練習、そして組体操。
6年生はそれに加えて、自分の係活動なんかもあるから、めまぐるしく動き回っている。ぎりぎりのところでやっていかないといけないので、しんどいが、このぎりぎり感が大切なんだと思う。
自分が子どもだったときもそうだった。ぎりぎりの感じだからこそ、「今を生きている」「精一杯生きている」という実感が味わえる。そういう、実感こそが、それからの人生を歩むための、原動力になるという気がしている。
私は、適当な性格のくせに小心者だから、来週のことを思って、週末もどきどきしっぱなし。子どものことも、組体操のことも、頭を離れない。映画を借りてきたけど、観る気になれないな~。ちょっとでも、何かしないとおれないから、こうやって文章を書いたり、学級通信を書いたりしている。
先週は、またまた色々ドラマがあった。そんなにいいものじゃないけど。
応援団の中にかなり温度差があって、一生懸命やるメンバーと、さぼろうとするメンバーがいる。実際、さぼる子もいて、2度にわたって渇を入れる。
そして、そうやって、熱くなりながら、私って全く、中学の頃から変わってないと思う。同じことしているわ~。子どもにはそれなりの事情を背負っていることは知っているが、そういうのをあれこれ考えると、心から叱ることができない。だから、私は、感情で物を言う。
本気でぶつからず、キレイごとばかり言う子ども達に辟易する。一生懸命なメンバーも、サボるメンバーも、お互いがお互いに甘えている。自分の思いをぶつけずに、なあなあでやっている。そんなんで、「協力」とか、「団結」とか、響きのいい言葉ばかり並べて、あきれる。本気の思いをぶつけなきゃだめだ。お互いに響きおうと思うなら。本当につながろうと思うなら。
私は、悔しいときと怒ったときは、そうとう感情的だ。あんまり、子どもを怒っているという感じじゃないなあ。まあ、でも、人間対人間だと思っているからこれでええんかなあ。
そんなこんなで、女の子一人を泣かせてしまった。「あなたが、そうやって、甘い態度を見せるから、真剣さが伝わってないんだ。本気で優勝したいと思っているんだから、許せるはずないやろ?思ってることぶつけや!」
その子の涙、一生けん命やっている子どもの涙を見せたかった。怒りを、伝えたかった。そうして、呑気な子ども達にエンジンをかけてやらないと…最終的にむなしい思いをすることになるんだから。それは私だって耐えられない。
組体操のクライマックスに、中島みゆきの「糸」を流す。使うのは、BankBandバージョンだけど。かなりいい歌。
思い返してみれば、私は、中島みゆきの歌が結構好きだ。小学生の頃から(笑)。
小学5年生のころに、「家なき子」の放送があって、毎週、食い入るように見ていた。
ひたむきに社会と対峙しながら生きるすずがすっごく好きだった。
雑草のように強くなれ。踏まれても、踏まれても、強くなる雑草のように、強く生きていけ。
そんな台詞を菅井きんさんが、安達由実に言う場面で、めっちゃ号泣した感触も覚えている。
ああ、私もそうやって生きていくんや、と思ったんだなあ、そのとき。
そうやって、私は、したたかになっていったんやなあ。
中島みゆきの歌に歌われるような、どろどろした、人間くさい部分が自分の中にあって、そういう部分があるから、私は教師になった。
ささやかで、こじんまりと、心地よいところに所属したい性質も持っているけど、それでも、人間くさい部分が勝っているから、こうして、運動会に熱くなり、子どもと対峙していくんだと思う。
ドラマが作れなくなったら、おしまいだ。
いろんな先生と話していると、「運動会」の取り組みを軽視したり、もっと簡略化しようといったりする意見に出会う。
ある先生の話では、ある小学校の子どもが、「うちの組体操なんてしょうもないから、運動会みにこんでいいよ~!」と言ったとか。簡素化されて、基本の動きだけの組体操らしい。
なんて、むなしい。子どもにそんなことを言わせる取り組みなんて。そんな学校なんて。
行事の簡素化の話を聞いたり、きつい練習の否定を聞いたりするたびに、すごく、やるせない気持ちになったり、怒りや悔しさがこみ上げてきたりする。
運動会の取り組みを通して、どれほど多くのものを学べる可能性があるか、どれほどの価値があるか、本当に分かっておられないのだ、と思う。
行事がどんどんなくなって、どんどんこじんまりして、こぎれいに、まとまっていくのか、学校は。
そんなつまらない学校からは、つまらない人間しか育たないんじゃないの。
机の上で学ぶだけで、どうやって、実感として生きていくことの素晴らしさを教えていくつもりなのだろう?もっとも、そんなことは、教えられるはずもなく、ただ感じられるように、物語の舞台を差し出すことしかできない。演出家なのだ、教師は。
みんなで何かを創り上げる体験、そしてその中でこそ、自分が生かされるという実感。演劇もダンスも・・・表現は疑似体験でありながら、日常よりリアルに「生」を感じられる場だ。
そうした場を子ども達から奪うなんて、許せない。生きる喜びを見失った大人の仕業としか思えない。
あと5日間。私は、私なりの感じ方と切り取り方で、子ども達と物語を綴っていく。
運動会の取り組みを通して、子ども達の課題が浮かび上がったり、新しい一面が見えたりしたのだ。もちろん、子ども達同士でも、そうした他者の再発見があったはずだ。
固定された人間関係や、他者へのイメージを崩し、出会い直していくために・・・運動会の可能性は限りないと思っている。
どこまで、いけるかわからないけど、あと少し、やるしかない!
