2008年01月

予想外



待ってみてよかったと思うときがある。
 
 見えないものがくれる、思いがけないサプライズ。

 そういうものがあると、ケンカする前より、もっと愛おしく思えるから不思議だ。

 あんなふうに見えても、そっか、気にしてたんだな、とか思えると、こっちのささくれも、あっという間に癒される。

 そういう思いがけないプレゼントを持っている子ども達。

 私が見ていても、見えていないものがあるって、今日は自分に言い聞かせて、許し、待った。

 よかった。そうしてみて。やっぱり、そうすべきなんだ。

 待ったら、出てくる素直さがある。彼らにしか、できないやり方で。

 大人気なく、ひねくれて、がちんこにやりあって・・・

 もう二度と顔も見たくない!って、ストローの袋投げつけて。

 ああ、大人気ない。

 でも、最後には、歩み寄れることを、知っているから。

 愛しているのメッセージは、いつだって、伝えているつもり。

 ああ、よかった。見えないものを見ようとしてよかった。

 なおそうとせず、わかろうとしてよかった。

 それができたら、私の描けなかった結果が届いた。

 予想しえなかった、出来ことがおこった。

 

 見えないものにかけること。見えないものを信じること。

 そこから生まれるものがある。

 あ~、サプライズだらけの今日だった。

 期待しすぎて、いつもがっかりする私。

 不安で、不安で、いつもがっかりする私。

 学校でも、あたふた、おろおろしてるわ。

 
 自分の不安なんかに負けずに、子どもを信じれるようになるといいのにね。そうなりたいね。

 

 不安という一滴の濁り水が、鋼鉄の愛にいつか穴を開ける・・・


 不安というのは、やっかいなやつです、全く。

子どもの絵に想う。



 19日は、京都市立美術館に、教育美術展を観にいった。

 京都府下の、子ども達の作品が飾られている。

 

 ちょうど、その前の日に、灰谷健次郎の「天の瞳」を読んでいたこともあり、倫太郎のエピソードを思い返しながら、だぶらせながら、この絵を描いたのは、どんな子なんだろうと考えながら、絵を見た。

 子どもの絵の前に立ったとき、「正確である」とか、「正しい」ということが、どれほどつまらないことを実感する。

 子どもの絵は尊い。大人になれば、上手な絵は描けるようになるかもしれないが、子どものような、感じ方、とらえ方、表し方はできないだろう。

200801191247000.jpg


 そんなエネルギーを感じる絵の前で、途方にくれる自分がいる。涙がこみあげてくる。

 ああ、わたしは、このエネルギーを絶対にうばっちゃいけないんだ。絶対に。

でも、もう1人の自分が、すぐにこう言う。

 ううん、大丈夫。決して奪えないだろう。あんたなんかに、決して奪えない。

 子どもの体に宿るエネルギーを、へなちょこな大人なんかに奪えやしない。私なんかに、子どものエネルギーを消せやしないんだから、大丈夫よ。

 子どもは、そんなにやわじゃない。人間は、人によってなんか変えられない。

 屈しない。個性って、そんな簡単に伸ばされたり、創られたりするものじゃないもん、きっと。

 むしろ、押さえつけられたほうが、のびるかもしれないって思えるくらいだ。

 押さえつけられても、なお、あふれだすようなエネルギーなんだから。人と違う、自分だけの、個性ってやつは。

 

 なんか、子どもって、こんなに、自由に、しなやかに、世界をとらえていて、それは、大人の、少なくとも、わたしには、決っして見えない世界なのよね。

 なのにさ、大人はさ、子どもはわからないから、無知だから、みたいにしてさ、「わかりやすいもの」を与えようとしがちでしょう。
 
 それって、絶対おかしいよね。「子どもに合った教育」とか、「子どもにとってわかりやすい授業」とか、それって、ほんとに、子どもが求めているものなんだろうか?そもそも、彼らが求めているものなんか、教育現場で与えられようとしているだろうか。

 与えられているのは、大人が、「子どもにとって必要だ」「役にたつ」「現代社会で必要とされている」と考える学力に見合った学習であり、それは、子ども達が求めるものではない。

 でも、子ども達は、本能的に、感覚的に、自分にとって必要なものが、なんとなくわかっているはずなのだ。それは、勉強したら、必ず、おもしろいって、体が反応するから。

「平凡な教師は言って聞かせる。
よい教師は説明する。
優秀な教師はやってみせる。
しかし最高の教師 は子どもの心に火をつける。 ウィリアム・ウォード」


 これは、今日出会った言葉。そうそう、そうなの!だから、アーティストの方が、わたしにとって、尊敬する教育者なの。

何からでも、学べるんだよ。そして、真の学びには、感動があると思う。


 本当に、子ども達が求めているものって、何なんだろう?

 それを、出発点にすべきなんだ。

 子ども達が求めるものから、学びをスタートする。

 全て、全て、そこからなんだ。



 月曜日。放課後は、地域でおにごっこ。クラスのユニークな少年の提案で、実現した。

 発案は男の子。企画・運営は女の子。寒い中、3時間近く、走り回ったらしい。

 そういう、楽しかった~!が、心に残る。そういう記憶が、生きる原動力になる。自分達のやりたいことを、自分達でやったというおもしろさが、人生を切り開く力になる。

 やっぱり、遊びは、偉大だ。最高の教師は、音楽や、遊びや、パフォーマンスや、そういう、芸術の類のことなんかもしれんな。

 


 子どもを、どうにかしよう、と焦っていた。

 でも、そう思うのも、控えてきている。どうにかしようと思わない。そう思うのは、おかしい。

 「なおそうとするな、わかろうとしろ。」

 そしたら、そのうち、子どもが、どうにかなってるってことも、あるらしい。いや、自分でも、そんな気がする。

 もう、ハウツー本は、いらないです。やっぱり、自分の目で見て、体でやってみて、心で感じてしたことを信じるのが一番だわ。

 「こうあるべき」とか、「こうしなきゃ」とか、活字からの情報って、正しく思えて、真面目なわたしは捉われる。

 目の前にいる、子ども達が、見えなくなる。

 心の回路を開きたい。

 そのためには、内なる発話を増やすこと。内なる発話を増やすためには、心に響く本を読み、考え、感じ、言葉にすること。

 共感のためのルートを開く。そこから、私の実践は始まる。

 立派な教師にならなくてもいい。授業の上手い教師にならなくてもいい。

 ただ、感じる心を、感性を持ち続ける人でいよう。そして、心で感じたことから、生まれる何かを大切にしよう。



 

和義おじちゃん。


たくさんコメントもらっているのに、返信もせずに、自分の書きたいことを書き始めることをお許しください。

 前にも書いたのだけれど、最近、斉藤和義をやたら聴いています。

 秋の通勤途中は、クラムボンのlover albumを、何回も何回も聴いてました。

 最近は、欠かさず“ウェディング・ソング”と、“君は僕の何を好きになったんだろう”を聴きます。あと、“空に星が綺麗”ね。

 斉藤和義を聴くようになって、なんか色々、気づいたり、思い返したりすることがあって…。

 誰かに似てるって思ったんです。

 それは、私の伯父でした。でも、私は会ったことがない。私が生まれる数年前に、交通事故で亡くなっているからです。

 だから、私は遺影の中の伯父さんしか知らない。

 “和義おじちゃん”とそう呼んでいました。

 私の家には、ご飯がたきあがったときに唱える言葉があって、その中には、和義おじちゃんの名前も出てきます。

 母の話によれば、賢くて、女性にモテて、感性豊かな人だったとか。

 そう・・・そんなもろもろの話を、斉藤和義が思い出させるのです。

 名前が同じなんだけど、顔も、髪型も、なんか似てる…。あの70年代っぽい感じが、かぶります。かっこいい…。

 血がつながっているのだけれど、もし和義おじちゃんが生きていたら、私は生まれることはなかったのだなぁ、と考えると不思議…。

 今年の正月に帰省したとき、母親にこういわれました。

 「あんた、今年は、和義おじちゃんの亡くなった年だから気をつけなさいよ。」

 そうかあ。25歳。

 なんだか、最近になって初めて、亡くなった伯父さんに会いたいです。

涙の金曜日。

『汲む』   茨木のり子
 ―Y・Yに―

大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始るのね 墜ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなかった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇  柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです




 久しぶりに…教室で泣いてしまった。放課後の教室、誰もいなくなった教室で。

 
 いつだって、金曜日。いつも涙の金曜日。なんでなんで?


 “教師になんて、なるもんじゃないよ。”頭をよぎった台詞。今の私なら、こんな言葉を子どもにつぶやくだろう…そう思うと泣けてきた。

 こうなりたいと思うのに、そうできない。自分がふがいない。

 そして、教師という仕事さえ、虚しく思えてくる。 


 わかってもらいたくとも、わかってもらおうとすらしてはいけない立ち位置だ。

 自分を傷つけるものでさえ、愛し、許すことを求められる。

 私は、傷つきやすい、弱い人間だろうか?それとも、プライドが高いだけか。いや…

 
 潔癖であることにこだわりすぎるのだ。

なぜこんなに潔癖であることにこだわるのか。

なぜこんなに正しいということにこただわるのか。

そうすることで、守れるひとがいる。

一方で、私からはなれて行く人がいる。

正しく、強くあろうとする私には、決して守れないものがあるのだ…強く見えて、ずるくて、それでいて、孤独で、本当は、誰よりも守られるべき魂があるのに。

私には、守れないのだ。

私には見えてない。見ようともしていない。見ようとしても、見れない。受けとめられない。

小学生の頃から変わらない部分が、拒むんだもの。

正しい人と守りたかった。正しいことを言ったり、優しい気持ちを持った人が、守られるような社会にしたいと思った。

どこから生まれるかわからない正義感。それだけは人一倍強かった。

弱い人の立場を守れる人になりたかった。ずる賢くて、弱者を悲しませる人を、徹底的にどうにかしたかった…。

潔癖な少女の考えそうなことだった。そのまま、大人になった。

だけど、今…私が教師になったきっかけが、教師としての一番のマイナス要素になっている気がする。私の正義感が、私を苦しめている。

正しくあろうとしても、正しく振舞えないその魂を、あなたは救えないのか?

自分が正しくあろうとすることを考えて、子どもの「悪」を正そうとする自分。それは、大勢の正しさを守ることにはなるけれど、正しくありたくても正しくあることのできない少数の「強者」「悪者」に見えがちな、弱く孤独な人々を、排除していっているのだ。

それは、正しくあることを願い、正しくふるまうことが難なくできた私には最も理解しがたい対象。おそらく、大抵の教師や大人にとっては。

そういうことが、頭ではわかっていながら、それでも、私には、寄り添うことができない。それは、きっと、私も傷つくのが怖く、壊れるのが怖いからだ。私もまた孤独で、守らねばならない自分があり、一歩、譲ることができないでいるのだ。必死で、ギリギリで、うろたえているから。

子どもと、子どものように勝負しちゃ駄目なのに。大人ぶれない、大人気ない私。

そして、子どもの悪態に、ひどく傷つき、落ち込み、泣いてしまう。

誰にもわかってもらおうなんて思わない。

でも、わかってもらいたい人がいるとしたら、それは、やっぱり、子ども達だ。

でも、それを、絶対に望めないじゃない。

子ども達は、私が求めたようなものは戻ってこないもの。それでいいし、それが生きた教育。

城島先生が「うまくいかないから、生きた教育」だとおっしゃっていた。

蒔いた種が、いつ芽を出すかわからないけれど、信じて、待ち、養分や光や水を与え、信じて待つのが教育。

だとすれば、私は、子ども達から何かが返ってくることを望むことはできない。

目に見えるものは、得られない。

それは、臆病で心配性な私にとっては、とてつもなく不安なのです。

それで、1人で焦って、傷ついて、落ち込んでしまう。

なんか、恋愛と似てる。私、彼らに恋してるんだ。

もっと、人間として成長したら、待てるようになるかしら。

それとも、こんなふうに、ずっとおろおろしてるんだろうか。

冒頭にのせた、『汲む』という茨木のり子の詩のように、生きていくのだろうか。

こうやって傷つきたくないけど、傷ついて、落ち込んでいるだけ、ましかなとも思う。

ああ、でも、すごく今日は孤独ということを思った。

もちろん、素晴らしい職場の同僚の先生にかこまれ、友達にも恵まれ、最高の人間関係の中にあって、そう思うのです。

だって、自分の問題。やっぱり、この痛みは、自分で引き受けるしかないんだもの。この痛みを感じているのは自分自身なのだから。

それは、共有できるものであるようで、そうでない。

弱いアンテナ…か。



今にも目からこぼれそうな、涙の理由が言えません。
今日も明日もあさっても、何かを探すでしょう…“僕の右手” BY The Blue Hearts




いってらっしゃい、エリカ!!

 私の親友、エリカが、今日、1月9日、羽田空港から、モンゴル・ウランバートルへ飛びたちます。

 彼女は、青年海外協力隊員として、2年間、ウランバートルの孤児院で活動するのです。

 彼女との出会いは、今から3年半前、20歳の夏でした。

 アメリカ・ウィスコンシン大学オークレア校の寮のロビーで・・・衝撃的な出会いを果たしました。

 10ヶ月間、共に留学生活を送った仲間。

 幾度となく夜を語り明かし、

 腹を抱えて笑い転げたり、

 泣きべそをかいて、抱きしめてもらいました。

 2人で奇跡的にオーロラを見たこともありました。

 2人でピアガイドをつとめて、体当たりの演技をしたこともありました。

 2人でニューヨークに旅にも出ました。そこで、りきちゃんというナイスな男前にも出会って、3人で珍道中を繰り広げました。

 ブルックリン・ブリッジの夜景と、「なごり雪」、忘れません。

 

 帰国後は、卒業旅行でヨーロッパ・バックパックの旅にも出かけました。

 道に迷って「真実の口」は見れず、「トレビの泉」と普通の噴水を間違えて、ポーズをきめて写真をとり、鍵をもらったがドアは開かず、ギリシャ語を間違って使いまくり・・・

 それでもアクロポリスの丘でとびきりの夜景を堪能し、

 お互いの存在から、絶えず、刺激を受けあう仲です。

 お互いに嫉妬しつつ、その存在を認め合っている、最高の友です。

 恋に笑い、恋に泣き、そういうのも全部打ち明けられる、信頼できるレディー・・・

 お互いのことを、「がまくん」「かえるくん」と呼び合っています。

 「結婚しようか、ゆか?」

 といわれたこともあるくらい、ラブラブです。

lovelove.jpg

 ああ、彼女が2年間日本から離れるのか?と思うと、彼女がいなくなることよりも、彼女が今感じている寂しさや切なさを思って、いたく不安であります。

 ああ、えりか!

 どうぞ、ケガなく、病気なく、健やかに、元気で2年間活動してきてください。

 そして、あなたの、どうしようもなく繊細なその心で、誰にも聞こえなかったメッセージや、誰にも表せなかった風景を、どうぞ、受け取り、伝えてください。

 大変な毎日かもしれない。

 でも、大変って「大きく変わる」ということなのだそうよ。

 あなたは、今、自分の舞台を、痛みをともないながら、じわり、じわりと広げているんだわ。

 その勇気と覚悟に敬意を表します。

 何かを成し遂げる人には、引き受けねければならない運命があるのですね。

 いつも、あなたのことを、心に描いています。

 夏にはモンゴルに会いにいきます。星空を見て、星と一緒になきたいです。

 しゅるしゅるって・・・。

 エリカにとって、そしてエリカと出会う人にとって、間違いなく、素晴らしい2年間になります。

 あなたにしかできない、あなたらしい2年間を過ごしてきてください。

 日本から応援しています。

 心からの信頼と尊敬をこめて・・・

 Big smile and warm hugs to you...

Your BEST Friend,

Yuka(がまくん)

erikayuka.jpg


 
「胸に世界の果を持つものは、世界の果に行かなきゃならぬ。」 安部公房


 


 
 

 
livedoor プロフィール
タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ