金曜の夜。うきうきする日と、どんよりする日と半々くらい。半分笑って、半分泣いてる。
昨日は、ふて寝。月曜日は、子どもと接することに余裕があるのに、金曜くらいは、やっぱり、言わなくてもいいことまで言ってしまうような気がする。そんな自分に自己嫌悪。
「耳をすませば」を観るつもりだったのに、またまたソファーで寝てしまう。12時間睡眠…疲れてるんやろうか。
土曜の夜。やる気に満ちている日と、無力感に苛まれる日と半々くらい。
いろんな先生や、アーティストさんや、友達…とにかく、色んなブログを読むんだけど、なんだか、溜め息ばっかりでるようで。自分の無知と非力を感じて、努力する気さえどっかへいっちゃう。どういうこっちゃ、これは。
ああ、もう何もかも投げ出したい!とさえ思う。自分には合ってないんじゃないかって思う。
自分が正しいと思うことが、いっぱい覆されるし、それは、おもしろくもあれば、しんどくもある。
自分は何を信じてやっていくか。それが、見定められないことは、しんどい。
優柔不断だ。そのくせ、決められないことに、イライラする。
新しい服を買うのは苦手だ。流行物を買うのも苦手だ。着こなせない、という前に、決めきらなくて、買えないというのが本音。
たくさん同じ商品がありすぎて、買う気がうせる。というのも、どれを買っても同じに見えるし、迷うことにとてつもない労力を使い、結局買ったあとも、もっといいものを見つけて、後悔が押し寄せるから、いやなのだ。
その点、古着はいい。たいてい、一着しかないし、誰も同じものを着ていないし、安いから、思い切りもいらないし、柄も、デザインも、古さゆえの新鮮さがある。
それに、運命の出会いを感じる。ああ、この服には、ここで出会わなければ、もう出会えないだろうというような、感覚。
私は、そういう出会いが好きだ。そこで、その服を買わなければ、一生後悔するなと感じさせるような。買ったあと、いつまでも、この服を買ってよかったと、思い続けられるような愛着を持てる服が好きだ。
服の話は、自分の全てに通じている気がする。
教育に関しても、私はそうだと思う。
みんなが「いいよ~」って言って、こぞってやることは、一歩引いてしまう。みんながやるなら、私はやらなくていいやって思う。みんながやるなんて、なんか、胡散臭いな、とも思う。
きっと、これをやらなくても、私は後悔しないだろうな、と思う。
でも、運命の出会いを感じさせる実践は違う。出会ったらいてもたってもいられない。とにかく、直接連絡を取りたいし、会いにいきたい。自分のものにしたい。
狙った獲物は逃がさない。
そんな感覚。
全ては、運命。出会うべくして、出会うのだ。
自分の感覚を信じる。
すごく、アンバランスな私。今は、色々、揺れている。
堕ちる、堕ちる。
中学生の頃、デザイナーになりたかったな。
洋服が、大好きだった。
んんん・・・・
先週、「ほぼ日手帳」を買った。友達のブログで存在をしり、どうしてもほしくなって、即行動。
私は、とにかく、ほしいと思ったものは、絶対手に入れたい。多少のお金がかかっても、できるだけ速い時間で。そうしないと、満足できない。
これも、現代の病にかかっている証だろう。駄目だ・・・一度便利さをしってしまうと、体がそれに馴染んでしまって、これまで満たされていたはずなのに、不満がおしよせる。
ほんと、自分はおかしい、とよく思う。
まあ、それはもう仕方ないから、それはおいといて。
その「ほぼ日手帳」には、一日ひとつの名言がページに記されている。
それをパラパラ読むのが楽しい。
“他の人をうらやんだり妬んだりするのは、
自分という人間を自分で創っていく上で、避けて通れない道筋だと思います。
自分を他人とくらべることで、人は自分を発見し、成長してゆくのではないでしょうか。
羨望も嫉妬も生きるエネルギーです。”<『谷川俊太郎質問箱』より>
そうだ、そうだと思う。
「自ら学ぶ」ということは、他者の中で自分を認識していくこと。
私は、教育は、そういう、妬みとか、自己否定とか、そういう、どろどろしたものの中に埋もれていると思う。
あたりさわりのよいものは、結局、自分の中の何物もえぐり出さないと思う。
一方で、私は、自分の殻がすごく大切であったりもする。そういう殻を、守れる場所が必要にも思う。
私は、自分の中からえぐり出すことをためらっている。あたりさわりのないことをしようとしている。でも、えぐり出したい思いはある。でも、ためらっている。
でも、子どもが、ぐさりと入ってくる。揺さぶってくる。ぶつかってくる。
んんんんん。
だめだ、うまく吐けない。頭がぐるぐるまきになったまま、今日は眠らないといけないのね。ふ~。。。
